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びこ

 大型犬になつかれた場合、面倒なことがいくつかある。その最たるものとして、飛びかかってくるということが挙げられるだろう。もふもふの尻尾を千切れんばかりに振りながら、助走をつけてジャンプ。
 四本足で立っているから、普段は威圧感を感じないが、よくよく考えてみると、奴らは体長も体重も成人男性なみなのだ。勢いよく突進されたら、運動不足のデスクワーカーなどひとたまりもない。
 三十路を過ぎた彼は、自分がその範疇に入ることを、最近しみじみと味わっていた。教師という職業がデスクワークであるのかは、疑問の残るところだが、運動不足なのは間違いない。階段を全速力で駆けあがったら、もれなく動悸と息切れがおこる。若い連中のようにはいかないのだ。
 日中よりかは少しだけましになったが、まだまだ暑さの残る夏の夕暮れ。斜陽が射しこむ廊下で、かすかな体の衰えを自嘲していると、向こうの方に見慣れた姿を見つけた。
「つっだせっんせ――いっ!」
 陽気な大型犬は、なついた人物の名を呼びながら廊下を駆けてきた。両腕を広く伸ばして、満面の笑顔。これが好意の表し方だとはわかっている。だが、方法は極めてまずい。
「藤原……っ!」
 無意識に奴の名を吐いていた。顔が渋く歪む。右によけるべきか、左によけるべきか。
 逡巡するわずかのうちに、距離をつめられた。藤原は右足をためて、身を宙に浮かせる。明るい色の髪が跳ねて、耳のピアスがちらりと見えた。
「どーんっ! 先生ゲット〜!」
 反応の遅れは、致命的な過ちをもたらした。若く俊敏な犬――藤原は彼に飛びついた。
「――っ!」
 教師として、ここで倒れるわけにはいかない。両足をふんじばったが、いかんせん相手はガタイのいい高校生だ。軸がよろめいて、抱えていた教材が派手な音をたてて落ちた。かけていた眼鏡がずれる。
「藤原っ! いきなり人に抱きつくなと、何度言ったらわかる」
「あははー、んじゃあ、前もって宣言すれば飛びついてもいいの?」
「駄目に決まっているだろう! 常識で考えろ……というか、離れろ! 暑苦しい」
「津田先生は心が狭いなー」
 藤原は唇をとんがらせて、抗議するが、目が笑っている。反省していない証拠だ。藤原はこの高校に通う津田の生徒だ。かっちりとした体格に、柔らかな風貌。
下校時間が近いから、気をゆるめているのだろう。留めるべきワイシャツの襟ボタンが拡げられ、無駄に発達した胸筋が脈動している。汗を吸ったインナーが変色していて、むさ苦しいことこの上ない。
 見た目だけなら立派な青年なのに、中身はまだまだ子どものようだ。
 何故だか津田になついていて、校舎で見かけるたびに、こうやって飛びついてくる。そのため津田は、心のなかでこっそりと大型犬のようだと思っている。
 眼鏡を直して、教材を拾う。テストの資料が混じっていなくて良かった。藤原がそんな姑息な性格でないとは知っているが、万が一ということもある。
「ごめんね、津田ちゃん」
 津田にならい、藤原もしゃがんで教材に手をのばす。間の悪さをごまかすためか、わしゃわしゃと頭をかいていた。また、ピアスが見え隠れする。
 青い――夏の空を映したような一粒の石。
「藤原、うちの校則は覚えているよな」
「俺、バカだから忘れちゃった。てへっ」
 舌を出してウィンク。流行りの「変顔」というものだろうか。津田には理解不能だった。もし、藤原の行為が心をふらつかせるものだとしても、懐柔されるつもりもなかった。
「なら教えてやろう。制服の改造・華美な装飾品は禁止だ。ピアスはそれに値する」
 髪をかきあげて、耳を露にする。白っぽい耳たぶを、小さな金属が貫いていた。
「ううー、ほんっと、心が狭いんだからー。ちょっとぐらい見逃さない?」
「見逃さない。明日までに外してこい。さもなくば没収だ」
 えええーと、ブーイング。元気な奴だ。
 だが、生徒のあしらいには慣れている。ハイハイと流していたら、頬を膨らませていた。
「そんなに言うならいいよ! 今ここで外してやるよ!」
 逆ギレ、とはこういうことを言うのだろうか。プンプン! とかなんとか言いながら、顔の横をいじくり始めた。
「あいてっ!」
「おい、大丈夫なのか」
 身を乗りだして、顔をのぞきこむ。痛みに眉を歪めているかと思ったら、きょとんとした目をしていた。
「あれ、津田先生やっさしーい! 心配してくれるんだ」
「当たり前だ。藤原は私の生徒なんだぞ」
 自分はそんなにも冷酷に見えるのだろうか。ちょっとショックを受けていると、藤原はまたにかっと笑った。
「これ、津田ちゃんにあげるよ」
「は? 外すだけでいいんだ。没収はしないぞ」
「それは俺のプライド的に許せないの。権力に屈するってカッコ悪いじゃん? だから、これは津田先生にプレゼント。……もらってくれなきゃ、またつけるからね!」
 手のひらにコロンと、青が二粒転がった。どこまでも澄んだそれは、藤原の性格を体現しているようだ。思わず苦笑がこぼれる。
「若いプライドだな」
「そりゃそうだよ。俺、若いもん」
 頭の後ろで手を組んで、藤原はにょきっと立ち上がった。じゃ、俺部活あるから! と言って、また走り去って行く。
「廊下は走るな!」
 叫んでみたが、きっと聞こえていないだろう。藤原の姿はみるみるうちに小さくなっていった。
 あとに残されたのは、小さなピアスが一組。プレゼントと言われても、いったいどうすればいいのか。
「教師がピアスなんぞつけられるわけないだろう……」
 まだぬるく体温を持ったそれをもてあましながらも、津田は注意深く手のひらを閉じた。
 何故だろう。口元が緩み始める。手の中でコロコロと、ピアスは楽しげに踊った。
 転がるピアスと一緒に、自分の心もはずみだしたようだった。

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*2011.07.01.up*