津田先生はよく文庫本を読んでいる。新書もハードカバーも手にするそうだけど、持ち運びに大変だから学校には持ってきていないらしい。俺はあんまり本を読まないけど、その理屈はよくわかる。前にでかい本屋に行ったとき、人を撲殺できそうな単行本を見てぞっとした。
なに、あれ。
あんだけの活字を書きだす人間がいるってこと自体理解不可能だし、あまつさえこの世には、それを解読する人間がいるらしい。世の中って広いんだね津田ちゃん、と先生に話したら、藤原が本を読まないだけだろう、と冷たく言われてしまった。どうやら津田先生は、解読する側の人間らしい。
そんな本好きの津田先生は今、俺を無視して延々と文庫本を読み続けている。窓から夕陽が差して、津田先生の眼鏡を赤く染めているけど、お構いなしらしい。
今週は津田先生が週番なので、下校終了時刻まで残って見回りをしなくてはならない。俺はそれにつきあうと一方的に約束して、職員室で時間を潰していた。その間、津田先生をからかって遊ぼうと思っていたのだけど、これでは退屈なのは俺だけだ。
「つっだせっんせー、かまってくださーい!」
「この章、読み終わったらな」
後ろから肩にべったりともたれかかって、うだうだ言ってみる。俺みたいなむさい男が密着したって、ウザったいだけのはずなのに、先生は気にする様子が全くない。眼鏡のレンズに映った活字を延々と辿りつづけていた。
文庫好きの津田先生はいつも、読む本にブックカバーをかけている。深いエメラルド色の地に、刺繍の黒猫がてけてけ歩いている小洒落たカバーだ。たぶん先生は、この黒猫に魅かれて買ったんだろう。
「あと何ページでーすかー?」
「60
「ひでー」
几帳面に整えてある髪の毛に手をつっこんで、ぐしゃぐしゃにしてやる。紙面に没頭する先生は、一言「痛い」を呟いただけで、何の反応も示さなかった。
「むーーーーーーーー」
肩にあごをのっけてうなる。ブックカバーの黒猫と目があった。金糸の目をぴかぴか光らせた猫は、津田先生を占有するのが当然とばかりに、すまし顔をしている。
「……俺の先生、返してよ」
小声で猫に話しかける。勿論猫が返事をするわけがない。耳元で喋ってやったから、きっと聞こえると思っていたのに、先生は無言で頁をめくるだけだった。あと59ページ。
「猫なんて嫌いだ……」
背中に顔をうずめる。かたい背は、ぬるく体温を伝えてくれたけど、俺の思いを先生に伝えてくれるわけではなさそうだった。