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れたハン

 校舎裏の駐車場に車を止める。職員専用の駐車場は空っぽで、自分が一番乗りであることを示していた。毎日のことだからなにか感慨が生まれることはない。それに、早朝練習に力を入れている野球部の顧問が、毎朝五時に自転車で登校するのにはかなわない。
 車から降りると、太陽の光が眩しく眼を刺した。手をひさしにして見あげれば、からりと晴れあがった 皐月 さつき の空が広がっている。暦の上では六月まで間がないというのに、濃い青色の天蓋には、雲ひとつない。
 早朝練習のために登校する生徒も未だまばらなこの時間だが、太陽は温度計の赤色をできるだけ早く育てたいらしい。 校庭の隅に置かれた百葉箱にも、人気のないグラウンドにも、惜しみなく陽光と熱を注いでいる。無論、教師である彼の上にも、太陽の光は降りそそぐ。
 入道雲のように白いワイシャツに、折り目がきちんとついたチャコールグレーのスラックス。きっちり固められたオールバックは、清潔感でいえば満点だが、同時にいくばくかの神経質さを感じさせる。長身の部類に入る彼が作る影法師は長く、駐車場のアスファルトの上に濃い色を落としている。
 今日も暑くなりそうだ。
 ふう、と津田はため息をついた。これでは蝉の鳴き声が聞こえるのもそう遠くないだろう。温暖化について詳しい知識はないが、年々暑くなっている気がする。自分が子どもだったころはもっと過ごしやすかったように思うが、昔のほうが良かったと繰り言を呟くのは年をとった証拠だろうか。まだ三十路、けれど、もう三十路。津田の唇が苦く歪んだ。
 軽く頭をふって、沈みかけた思考を追い払う。すがすがしい五月晴れの朝に、わざわざ落ちこむようなことを考えなくてもいいだろう。来週には中間考査が始まる。くだらない悩みごとに費やしているような時間はない。
「今日も一日、悔いのないように」
 自分に言い聞かせて、拳をきゅっと握る。顔をあげて一歩踏み出そうとした瞬間、背中に馴染みのある衝撃がやってきた。
「おっはよー! つっだせっんせ!!」
「藤原か」
 犬が尻尾をふるように声を弾ませていると思ったが、ふりむいてみたら目まできらきら輝かせて、褒められるのを待つ飼い犬のようだった。少し茶っけた髪が朝陽に透けて少しまばゆい。
「こんな早い時間にどうしたんだ。珍しい」
 藤原は遅刻常習犯でこそないが、遅刻ぎりぎりの時間に登校する要注意人物ではあった。いつもこれくらいの時間に来てくれるのなら、生活指導の負担も少しは軽くなるだろうに。
 背中にもたれかかろうとするのを制して問えば、藤原はぷーっと頬をふくらませる。
「せんせー。おはよー、おはよー!」
「ああ、お早う。どうしたんだ今日は」
 挨拶に応えるまで意味のある言葉を発するつもりはないようだった。仕方なく片手をあげてみると、へらっと笑った。わかりやすい奴だ。
「えーっと、ちょっと用があってさ」
 わかりやすい奴が表す困惑はやはりわかりやすく、藤原は頭をぽりぽりやる。
「どうした? 校舎の施錠なら開けてやろうか?」
「あ、いや、そういうんじゃなくて」
 職員室へ歩き出そうとした津田を、藤原は呼びとめる。おそらくワックスで整えただろう髪をくしゃくしゃにして、左手は斜めにかけたショルダーバックのファスナーをもじもじといじっていた。
 こんなに朝早く登校してくる藤原も珍しいが、こんなふうに煮え切らない態度でいる藤原も珍しい。いつもの藤原は脳みそで考えるよりも早く口、あるいは手が出ているような生徒だというのに。
「ああ、誰か待ってるのか」
「う、うん。だいたいそう、かな……」
 藤原は社交的な性格なうえに、面倒見がいいから交流関係は広い。朝から部活のある友達に呼ばれたか待ち合わせでもしているのだろうと結論づける。だとしたら自分は早く去ったほうがいいかもしれない。相手は高校生なのだ。夕刻や夜に集会しているようなら指導も必要だろうが、朝の早くから集まるのに問題はあるまい。教師が側にいては話しにくいこともあるだろう。
「校内に用事がないなら、私は職員室に行ってるからな」
「待って!」
 シャツをひっぱられた。きらきらしていた目は急に曇り空になって、鼻の濡れた犬のようにしょんぼりと眉がたれ下がっている。
「どうした?」
「人は、待ってた。待ってた、けど。待ってた人、もう、来たから」
「じゃあ早く行ってやったらどうだ?」
 煮え切らない態度に、つっかえた言葉。本当に藤原らしくないと思っていると、藤原はまた頬をふくらました。
 シャツを握ったまま鞄を開けて、何かを津田の眼前につきつける。
「なんだこれは」
「ハンカチ」
 少し視線を引いて見てみれば、折りたたまれた薄手のハンカチだった。変哲のないグレイのハンカチで、きちんとアイロンがかけてある。だが、それだけだ。
「……ハンカチだな」
 他に何と言えばいいのか。藤原の言葉を復唱するような形になったが、津田はそれ以外なんの感想も持てなかった。
「先生、覚えてない?」
「何をだ?」
「これ、先生のハンカチだけど」
「そうなのか?」
「そうだよ」
 まじまじと見てみても、記憶から浮かぶものはない。グレイの無地なんて、どこにでもあるようなハンカチだ。自分も同じようなものを何枚か持っている。どこかに置き忘れてしまったのだろうか。まったく気づかなかった。
「そうか、忘れてたのを持ってきてくれたのか。ありがとう」
 外見からすると少し意外かもしれないが、藤原は結構律儀な奴だ。受け取って微笑むと、藤原は無表情で津田を見つめ――少し、微笑んだ。
「うん。前から渡そうと思ってたんだけど、つい渡しそびれちゃってさ。朝一番に学校来たら、忘れないかなって思って」
「そうだったのか」
 やけに煮え切らなかったのは、言いだせなかった期間の後ろめたさ故だろうか。そんなこと、全く気にしないというのに。
 藤原はシャツから手を放して、朝陽のまぶしさに目を細めたようだった。子供っぽい表情ばかりするくせに、そうしていると、どこか遠いところを見ている大人のような顔になる。
「やっぱり、忘れてたんだね」
 ハンカチのことだろう。手に取った今でも、いったどこに忘れていったのか思い出せない。苦笑してそう告げると、藤原はやっぱりなー、と言って笑った。
「津田ちゃん、意外に忘れっぽくない? 若年性痴呆症かもよ?」
「うるさい、そんなわけないだろう」
「ひどいお言葉ー、せっかくハンカチ持ってきてあげたのに―」
「それには礼を言っただろう。まとわりつくな暑苦しい」
「減るもんじゃないじゃん。津田ちゃんのけーちー」
「体感温度はふえるんだ!」
 じゃれついてくる藤原をいなして津田は職員室へを歩を進める。べたべたとくっついてくる藤原の体温が暑苦しいを通りこしてうっとうしい。いつもこれくらいの時間に来てもらっては、こっちの体力が持たなさそうだ。
 遅刻をしてもらっては困るが、もう少し遅い時間に来てもらっても、一向に構わない。
 腰にまわしてくる腕をふり払いながら、津田はこっそりとそう思った。

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*2011.07.17.up*