―――――I love you best when you are sad.
にぎやかな学生通りから一本曲がった路地にある喫茶室。
ダチュラ型のスピーカーからは、柔らかなピアノが流れている。窓ぎわに座るサディはその曲を知らなかったが、店主の趣味がいいのはわかった。客の喋り声をかき消しはしないが、厨房で呟き続けているケトルの独り言はメロディに紛れて気にならない。
年を重ねて風合いを持った煉瓦造りの内装に、飴色の調度品がしっくりと調和している。各テーブルに飾られた一輪挿しは、奥方の意向かもしれない。サディの席には小さな青磁の器に、清楚な青い花がいけてあった。
カゼルが選んだ割には、いい雰囲気の店だ。淑々と
射しこむ夕陽を受けて、サディの白い髪が紅に染まる。若木のような細い腕と、声変わりもまだ遠い、起伏のない喉から判断すれば、手元で茶器をもてあそぶ彼は、十を越えたばかりのほんの少年にしか見えない。子供ながらに整った顔立ちを鮮やかにひきたてるのは、アメジストを嵌めたような両眼の紫瞳。その瞳もまた、かすかに紅をおびている。しかし、彼の瞳は、紅よりも色濃く、いとけない子供にはありえないほどに物憂いの色で染められていた。
だがそれも、当たり前の話ではある。次代三王直属特別相談顧問官、サディ・フォン・レーヨン。彼は人の三分の一の速度でしか年をとらない。三代の王を支える勤めを、天から与えられたと伝えられている。神代より続く役職に就くことを定められているが、サディ自身はそれを苦痛に思うことは少ない。長い時を過ごす苦しみをかき消すほどの喜びを与えてくれる友がいるからだ。
即ち、まだ影も見せぬ待ち人カゼル・ブリューゲル。
サディが彼に出会ったのは、まだカゼルが物心ついた頃だった。けれど子供の成長する速度はとてつもなく、十年経つか経たないかという時間で、高等学府の学生になってしまった。背もにょきにょき伸び、声も低くなって、元の幼い頃が思い出せないほどだ。一人前に恋などして、サディに相談を持ちかけてくる。
今日はその相談のために喫茶室で会う約束だったのだが、時刻をすぎても、カゼルの姿は見えない。
レコードが終わり、店主が新しいレコードに優しく針を置いた。流れ出す新たなメロディ。この曲はサディも知っていた。彼の想い人が好きなピアノソナタだ。
生きてきた年数が違いすぎるため、今までカゼルはサディを半ば兄のように慕ってきていた。恋の相談なんてされても、サディには答えられないと何度くり返しても、カゼルはそのたび想い人のディテールを語る。そのせいで、一度も面識がないのに、彼女について詳しくなってしまった。サディと血の繋がった本当の兄弟は、相談を持ちかけるのはおろか、この数年会ってさえいない。皮肉なものだと思う。
カップに留まる紅茶をくるりとまわす。わずかに混じっていた紅茶葉と、溶けきらない砂糖が突風にさらわれた木の葉のように乱れ回った。
「すまない。遅れた」
沈痛な声が背後からかけられた。ふりむくと、ブレザー姿の待ち人が申し訳なさそうに佇んでいた。
地の肌から浅黒い、どこか南国を思わせる顔つき。闇に紛れる獣の毛のような髪が風に乱れてうねっている。もっとも、カゼルは洒落男でないから、朝起きてそのままという可能性もあるが。
カップをソーサラーに置いて、サディは立ちあがった。
「そんなに待ってないから、気にしてないよ」
浮かべた優しげな笑みはそのままに、自分よりずっと背の高くなってしまった友人の股関を潔く蹴りあげる。
「―――っ!」
「なんて、僕が言うと思ったか。カゼルのバカ! 一体どれだけ待ったと思ってる」
悶絶し、悲鳴も出せずにうずくまるカゼルを、サディは冷ややかに見おろした。
「ごめん、こんなに遅れるつもりじゃなかったんだ」
「言い訳って、見苦しいし、聞き苦しいよね」
「……ごめんなさい」
カゼルの両眼には、痛みのために涙さえ浮かんでいた。密林にしげる
自らの袖で涙を拭うカゼルを座らせて、サディは遅れた理由を問う。だがカゼルは、悲しげにうつむいたきり、微動だにしなかった。
二人の間をピアノソナタだけが埋めていく。気をきかせたサディがカゼルのぶんも紅茶を頼んだが、それに口をつける様子もない。琥珀を赤くとろかせたような水面に、カゼルの顔が映る。
きっとよくないことが起こったのだろう。我慢強いカゼルは、辛いことを自分の内にためこむ癖がある。拳を握って、激情を堪えて、どうにもならなくなるまで、誰にも頼らず歯をくいしばるのだった。
サディは待った。ティーポットから注がれたばかりの熱湯から、湯気が消えてしまってなお、サディは待った。時間ならいくらでも、持て余すほどにある。カゼルのまなじりから澄んだ水滴が消えて、サディのカップからぬくもりが消える。静物画に描かれた二つの果物のように、二人は沈黙を保っていた。
「カゼル」
二杯目の紅茶を運んできたウェイターの気配が厨房に入るのを確認してから、サディは彼の頬に両手を添えた。
「話してごらん、カゼル。なにがあっても、僕は君の友達なんだから」
宝玉よりもいとおしい緑瞳を見つめるために、下をむいた顔をあげさせる。こめかみあたりの髪に指をさし入れて、サディの方へ引きよせた。
初めて出会った日の面影は淡く消えかけ、精悍な青年の輪郭が浮かび始めている。瞳の色だって、幼い頃はもっと薄かった。無残なまでに、時は彼を変えてゆく。
じわり、と。
透明な雫がにじんだ。サディの指先が、忍の一字をほどいたのだろう。カゼルは人目もはばからず、大粒の涙を流し始めた。
「ふ……ふられて、しまったんだ……いっしょう、けん、めい……想いを、こめて、告白、したのに……っ! おれのこと、は……す、す好きじゃない……って!」
嗚咽混じりに、他愛ない失恋の経緯が語られる。レコードは彼を癒すように、メロディを囁いていた。カゼルは頬をまっ赤にして、子供のように泣いている。余程ショックだったのだろう。
「まったく、仕方のないな、カゼルは」
こつん、と彼の額に自分の額をくっつける。不安になっている時に、よくこうやってやったものだ。だいぶ大人びてきたのに、彼は文句ひとつ言わずに目蓋をおろした。
「辛かったね」
「うん……」
素直にうなずく。こうやってお兄さん面をして慰めてあげられるのも、いつまでのことだろう。サディの体にあわせて、サディの心も成長速度は遅い。長く生きているぶん、知識や知恵、国策の打ち方や人心のつかみ方は詳しくなっているが、それもいつかはカゼルに追い抜かれるだろう。彼はサディが見てきた中で、最も聡い子供だった。あまり高くない家柄ではあるが、貴族たちの中では将来を楽しみにされている子の一人だ。
カゼルが壮年になっても、サディは成人すらしていない。彼が仕事を覚え、所帯を持ち、子をもうけても、サディは初恋すらしていないかもしれない。そうすれば、いくら長い間生きているとはいえ、人生の先輩面をするのは難しい。
カゼルのウェーブがかかった髪をくしゃくしゃにして遊ぶ。失恋の苦しみも悲しみも、サディはまだ知らない。いずれカゼルは自分を追い越していくだろう。これはその第一歩。長く続く階段の一段目。
遠く離れてしまっても、僕を好いてくれるだろうか?
己に問うても仕方のないクエスチョンを胸に浮かばせたまま、サディも瞳を閉じる。暗闇の中、互いの体温が額から伝わりあって、混じりあっていた。
このぬくもりは、きっと真実だ。永遠が約束されなくても、この一瞬が存在したことは否定できない。時が一瞬の積み重ねなら、一瞬とは、救いようもなく分断された永遠だ。
あせた紅茶の香と、二人の体温が脳裏で調和し、溶けていく。せめてこの一瞬を切りとって、最期の時まで持っていけたらいいのにと、サディは寂しくほほえんだ。
Gentian:リンドウ
花言葉は――悲しんでいるあなたを愛する。