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階段の飛び方

 僕はまだ階段の飛び方を知らないでいる。
 例えば学校の階段。七不思議のひとつだとかいういわくつきの階段の頂上で、僕は途方にくれていた。なんの特徴もなく、垢ぬけない濃紺のそれは、内にひそむ小さな破壊願望を呼び覚ますには充分なのだ。小さな溝をジャンプするくらいの気軽さで、目の前の階段を飛びたくなってしまう。けれど現実は片足が空中を踏んでいるだけで、もうあと一歩を踏み出せない。
 階段は降りるものだ。飛んだってどうにもならない。と、諌める自分は横にいる。でもそれを無視して飛んでしまいたい。飛んだらどうなるかと想像するのが楽しくて止まらない。足を痛めるだろうか。腕に痣ができるだろうか。背骨が折れて一生寝たきりだろうか。ベストは足首を壊すか、腕のスジが多大なダメージを受けるかだ。死ぬのは論外だし、再起不能も少々遠慮したい。全治一カ月、いや、一週間でも構わない。傷の痛みも、間抜けの誹りもなんということはない。本当は、変わらない日常を壊してくれさえすれば、なんだっていいのだ。そもそも学校の階段ごときで大怪我を望むこと自体、色々と間違ってる。
 僕は、周りに誰もいないのに、作り笑いを唇にのせた。途端に、不愉快な蝉の声がけたたましく響く。
 今年の夏は例年になく湿度が高く、不快指数が八十を越える日が続いた。昨日のニュースでは、熱中症で倒れた老人が二桁に達したと報じていた。
 お盆の前に大会が終わり、高三の先輩が引退したあと、僕は男子剣道部も副将にすえられた。主将の次に偉いはずなのだが、権威を後光にかざすよりも、雑用を押しつけられている時間のほうが長い。きっと、ハメられたに違いない。女子剣道部より優勝トロフィーも貰った賞状も少ない部とはいえ、まがりなりにも男子剣道部だ。今年こそ女子に追いつくぞとの げん は、男子剣道部歴代主将のものであり、部員全員の願いでもある。秋の大会に向けての、午前六時から午後六時までの厳しい練習は伊達や酔狂ではない。良くも悪くも若さを燃焼させている彼らの前で、僕は少しだけ気遅れのようなものを感じていた。
 なにも、疎外感などというご立派なものではない。限りなくパシリに近いとはいえ、並みいる同輩のなかから副将に選ばれたのは、それなりに信頼されている証拠のはずだ。部活中はきついことを言ってしまうけれど、休憩になれば馬鹿な冗談をとばしあえる奴らが嫌いだと言ったら嘘になる。勉強とはなんとか折り合いをつけてやっていけてるし、親との関係もまあ良好。些細な衝突なんてのは、この年ごろにはごくごく当たり前のことだろう。日常からどのシーンを切り取っても、平凡な高校生の写真しか撮れない日々に、僕はほとほと嫌気がさしていた。こんなにも型にはまった自分は、本当に自分なのだろうか。疑問がわく一方で、これが本当の自分だとなだめる自分もいる。何人もの自分が口論する会議室の扉を閉めて、僕は日常からの離脱を夢見ていた。究極の形は死なのだろうけど、全てを手放す勇気はない。そして、このふがいなさが、僕の小さな自傷願望に火をつけた。リストカットをするほど鋭くもないくせに、何もしないでいられるほど鈍くもない。頭から離れない鈍痛のように、面倒な強さで僕をさいなむそれは、僕に一つの答えをくれた。
 すなわち、階段を飛ぶこと。
 怪我をしてどこか痛めれば、部活には参加できなくなるだろう。日常からの小さな離脱。ついでにふがいない自分を痛めつけることもできて一石二鳥だ。赤過ぎるために黒く見える炎につき動かされて、僕は学校で一番長い階段を駆けのぼった。
 所在なく漂っていた片足をそのままにして、僕は両腕を軽く広げた。大した高さのない階段が、奈落の底までつながった長い階段に見える。ならば僕がいる頂上は、天の最上階だと思い違えよう。空と風と人の世界を、最愛の恋人のように抱きしめて、飛んでいこう、落ちていこう――

「なにやってんだ、お前」

 あと一瞬。声をかけられるのがあと一秒でも遅ければ、僕は確実に落ちていた。全身の筋肉が硬直して、それでも言葉にひっぱられるように後ろへ首を回す。声の主は仏頂面で、両手を広げた僕を見ている。タネがバレた手品師のように、僕は不自然に笑って彼の名を呼んだ。語尾に乾いた笑いをおまけしてやる。
 奈落の底を見ていた僕の目には、彼の洗いざらしのワイシャツが白くまぶしい。剣道部主将のくせに、汗臭さを感じさせないところは彼の美点だろう。彼は面白くもなんともなさそうに、階段を正しく降りていった。
「それ、いつまでやってんだ。うちの副将が暑さでぶっ壊れたなんてことになっちまったら困るんだが」
 僕の数段下で彼は言い放ち、残りの段を危うげなく下る。硬直がとけた僕は、彼に続いて足を下ろした。奈落に通じていたはずの階段は、いつもと変わらない感触を足の裏に伝える。一段降りていくたびに、僕の炎が沈火されていくのを感じた。長い長い階段を降り切ったとき、炎はちろちろと おき を残すばかりだった。廊下は夕焼けに染まり、彼の後姿も静物のようだった。 人気 ひとけ のない黄昏の校内は、不気味と言うより、荘厳といったイメージのほうが強い。金の斜光に照らされたリノリウムの床。等間隔で並ぶ柱は、永遠に続く回廊を思わせる。この風景も、かわりばえのない日常の一部でしかないのに、息をのむほど美しかった。
「帰るぞ」
 彼はふりかえりもせずに、一言を告げた。僕がついてくることを当然のこととした言葉。帰宅を予定する以外に何の意味も持たないのに、僕は深くうなづいていた。
 何故なら彼の言葉は、日常に帰るぞ、と聞こえたから。

  了

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*2011.07.01.up*

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