「活字を食べる魚を、預かってはいただけませんか」
と、せんせいは言った。
活字ですか、と問うと、せんせいは活字です、とオウム返しをする。放課後の教室だった。窓ガラスが夕陽を吸いこんで、紅に染まっている。葡萄酒で満たされた水槽の中にいるようだった。
二人きりだったからだろうか。せんせいはいつもよりすこしだけ饒舌だった。変声期が終わったはずの成人男子にしては、やわらかすぎる声をとめどなく流しつづける。制服で椅子に座ったまま聞いているから、まるで授業中のようだ。せんせいは教室を軽く歩いている。水中にいるようなゆったりした動きは、せんせいのほうが魚のようだ。
墨を流したような黒い髪に、淡い栗色のひとみ。北国から転任してきたせんせいの色素は、雪で洗われたように清い。女生徒が肌の色をうらやむ言葉を、今学期だけでなんど聞いたことだろう。たそがれの光を浴びて、眼鏡のつるが銀色に光った。
「無理ですか? 君に断られると、ぼくはあてがなくなってしまうのですが」
見とれていたのを、拒否の沈黙だと思ったのか、せんせいは形の良い眉をひそめた。素直に浮かびあがる表情が、まるで少年のようだ。視線の高さが同じになるように、椅子の前でしゃがみこんで手をあわせている。
――かまいません。
見とれていたのに気づかれたくなくて、わざとそっけない物言いをする。これ以上はないくらい無愛想な顔だったのに、せんせいは顔をほころばせた。食卓に好物がのっているのを見た人のようにほほえむ。
「ありがとう。君なら、きっとうまく飼ってくれると思うんです。君はよく、図書室にいるでしょう? 僕の魚は、図書室の雰囲気が大好きなんですよ。君も気に入ってくれるといいのだけれど」
頬のえくぼを絶やさずに、せんせいは魚について説明する。
食事は毎日与えなくてもいいけれど、月に一度は詩集をやってほしいこと。できればS国産の詩集がいいが、今は手に入れにくいから、L国の中世の詩がいいこと。水を代えるときは少しずつでよいこと。
性格は気難しくはないが、活字に縁遠い人間にはあまりなつかないこと。北の海で見つけたけれど、あたたかいところでも大丈夫であること。
「今度、ちゃんと飼いかたを書いた紙を持ってきます。机に入れておきましょう」
手渡しでもいいのにと思ったけれど、せんせいは魚のことを他の人に知られたくないのかもしれない。二人だけの秘密だと思うと、胸がふるえた。
「じゃあ、ちょこっとだけ失礼しますね」
せんせいはそう言うと立ちあがって、恋人同士がするように抱擁した。思わず目を閉じると、額にかたい感触。せんせいの髪がまぶたに落ちてチクチクした。どうやら額をあてているらしい。唇でないことに、安堵とわずかばかりの心残りを感じる。
――なにをするんですか。
――しーっ、静かに。
せんせいにさえぎられてしまったら、話せることなんてなにもない。額から体温を感じる。ぬるいそれは、せんせいが風邪をひいているわけでないと教えてくれていた。すくなくとも、なにかの熱に浮かされているわけではないらしい。
唐突に訪れる沈黙。
放課後の校舎には二人しか人間がいないのではないだろうか。
目蓋をもちあげる音さえ聞こえてしまいそうで、なにひとつとして身動きがとれなかった。まつげが、わななく。
「僕の魚は北の海にいました。だから、とても頑丈な体をしています」
やわらかに言葉をそそぎこまれた。海を見たことはないけれど、せんせいの声のなかに、潮騒を聞いた気がした。
「うろこは銀で、すこし瑠璃色をおびています。えらがピンとはっていて、脈打つたびに桃色のすじが見えます」
魚のイメージがぼんやりと浮かびだす。つやつやしたうろこに、優雅な曲線の体躯。北の冷たい黒い海が、頭の中に流れてくるような気がした。
「目はみどり色です。けど、とても素敵な詩を食べたときは、興奮してうっすらと金色に光ります。どうですか、見えてきましたか?」
潮の香りをかいだ。額の接点から、ごうごうと音をたてて潮流がやってくる。せんせいの海が、流れてくる。
「胸びれは丸っぽい扇形ですけど、尾びれは厚くて鋭いですよ。北の冷たい海水をきって泳がなくてはなりませんからね」
遠く、潮流の向こうにピカピカ銀色に光るものが見えた。はっとして、せんせいの腕をつかむ。あれがせんせいの魚。
「せんせい、」
魚はこちらを一瞥すると、くるりと方向を変えてこちらに向かってきた。大きい。うろことひとみは爛々と輝き、しなやかな体は潮流をきって渦をつくる。
せんせいをつかむ手に力が入った。
「大丈夫です」
あやすように頭をなでられた。それだけで、緊張が消える。
魚と目があった。薄く金色に光っている。
ぽちゃん
かわいらしい水音がして、頭が海で満ちた。せんせいの魚が、脳裏をゆらりと泳ぐ。頭蓋だけではなくて、体全体がずっしりと重くなったような気がした。
せんせいの体が離れる。遠くなってゆくぬくもりを惜しく思いながら、そぅっと目をあけた。教室は赤く染まったままで、さっきからほんの数分もたっていないのだと思い知る。
「すみませんね。活字を食べる魚を移すには、こうするしか方法がなくて」
なさけない顔をして、せんせいは頭をかいていた。大人のひとだと思えないくらい、せんせいの表情に嘘はない。
こちらもそれくらい素直になれたらいいのにと思う。たとえば、もっと長い時間抱きしめていてほしかったと伝えるとか。けれど、口は従ってくれない。
――魚は頭のなかにいたんですか。
「あれ、言ってませんでした?」
――ええ、一度も。
「ああ、なんてことだ! では、びっくりさせてしまいましたね。申し訳ない。君があんまり静かだったから、てっきり言ったものだと勘違いしていました」
ごめんなさい、とせんせいは真剣な顔をする。
――かまいません。
嬉しかったから、いいんですという本音は飲みこんだ。
――立派な魚ですね。
なんとなく頭がぐらぐらするのは、魚が泳ぎまわっているからだろうか。新しい水槽に慣れていないからか、せんせいの魚のひとみは薄く金色に光っていた。
「でしょう!? 君ならわかってくれると思ったんです!」
ぱっとせんいの顔が明るくなった。これ以上はないくらい上機嫌な声で、魚について語り始める。そういえばせんせいは、自分の好きなことなると時間を忘れて喋りつづけるのだった。そういうところは、正直うざったい。
――それならどうして、預けたりするんですか。
ちょうどいい話の切れ目をみつけて、疑問をはさみこんだ。せんせいの語りを止めるためだったのだけど、せんせいは時が止まったかのように、いっさいの動作をやめた。
ただ、つかれきったように微笑む。
「遠いところにいくんです。魚をつれていけないぐらいところに」
先生の訃報は、五日後に届いた。