縊死だったらしい。すこし目を離したスキに、自らくくったそうだ。けれど遺体には不審な点が多々あったという。たぶん強要された死だったのだろう。
遺された魚が、無機質なひとみで頭を泳ぐ。
葬式がすんで、制服のまま教室へ足を向けた。あの日と同じ紅の夕暮れだった。同じ場所に腰をおろす。椅子は硬かった。赤い教室をぼんやりと見つめる。せんせいはいない。
どれだけ待っても、せんせいはこない。
せんせいはどこにもいない。
――はやく、せんせいのところにいかなくては。
少年のようなせんせいは、きっと淋しいのはきらいだろう。机を赤い窓によせる。教室は四階にあるから、高さはじゅうぶんだ。預かった魚を駄目にしてしまうのは心苦しいが、いっしょにいくのだから、きっと迎えてくれるだろう。
窓を開けた。
眼下に誰もいない校庭が広がる。
怒らないでくれるといいのだが。
机に手をかける。
足をかけようとして、ふっと、はみ出した白い紙に気がついた。机に物を入れるときは、きちんとしまうようにしている。乱雑に物をつっこむのは、むしろせんせいのほうだ。職員室の机は目もあてられない惨状だった。
ひっぱりだすと、封筒に薄い字で「魚の飼いかた」とあった。
せんせいの字だった。
目の前が真っ白になる。魚が跳ねる音がした。封筒をビリビリにひき裂いて、中身をとりだす。飢えた獣のように、せんせいの字をむさぼった。
食事は毎日与えなくてもいいけれど、月に一度は詩集をやってほしいこと。できればS国産の詩集がいいが、今は手に入れにくいから、L国の中世の詩がいいこと。水を代えるときは少しずつでよいこと。
性格は気難しくはないが、活字に縁遠い人間にはあまりなつかないこと。北の海で見つけたけれど、あたたかいところでも大丈夫であること。
魚を預かったときと同じことばかりだった。けれど、間違いなくせんせいが遺してくれたものだ。鼻のおくが、つんと熱くなる。
二枚目を開くと、「さいごに」とあった。
――さいごに、僕が帰ってこなかったら、魚はどうか君が飼ってほしいと思います。前の飼い主のことなんて忘れてください。そうでなければ、魚はきっと君になつかないでしょう。一度、大量に水を代えれば、きっと忘れられます。だからどうぞ、この言葉も忘れてください。僕は君を、つよく慕っていました。
さようなら。会いになんてこないでくださいね。僕は君が現世で幸福であることを好みます。
追伸:ちゃんと帰ってきて、こんなことは冗談だと笑い飛ばせるといいのですが。
バルブが壊れてしまったのだろう。眼球と眼窩のあいだから、魚の水が漏れだした。視界が歪む。これでは魚がひあがってしまう。
うろこがカラカラになる魚を想像しておののいたけれど、流出を止められなかった。次から次へと溢れだす水が手紙をしとどに濡らす。しゃがみこむと、本格的に流れはじめた。教室が水槽の中みたいに歪む。嗚咽がこぼれる。せんせい。せんせい。ただ、彼を呼びつづけた。
なにかを洗うように、涙が流れつづける。
泣いているのを見守るように、魚は頭のなかを泳いでいた。
…………
泣きつかれて眠ってしまったらしい。
気がつくと、開けはなしたままの窓から忍びこんだ夜気が、涙の這った頬を舐めていた。ぎこちなく立ちあがると、くっきりした夜空が視界を占領する。
前に、せんせいは、故郷の海は夜空のようだと教えてくれた。
夜闇は深海のような色をしていて、星の光は魚のうろこのように見える。あれだけ涙を流したのに、頭の海はぽちゃん、と満ちたりた水音を奏でていた。きっと夜空が海水になって流れこんだのだろう。
なら、夜空と海はつながるだろうか。そこから見ていてくれるだろうか。
せんせいの灰は、海に流されたと聞いた。故郷の北の海に還るのだという。
せんせいはどこにもいないのではなくて、どこにもいるから、見えないだけなのだと信じられるだろうか。
真っ黒になった窓を閉める。映りこんだ自分にちょっとほほえんで、きびすをかえす。
魚が、満足げに尾をゆらした。