津田先生は意外にモテる。
外見はイケメンってわけじゃない。細い眉と眉の間には大概しわが寄ってるし、一重の瞳は迫力がありすぎてヘビみたいだ。本気で叱られた不良がカエルみたいに膝をがくがく震わせていたのを見たことがある。津田先生は背こそ高いけれど、マッチみたいにひょろっとしてて、力があるようには見えないのに。
性格だって優良物件なんかじゃない。怖そうな顔は怖そうな内面から作られたのだ。お説教は長いし厳しいし、校則違反はその場でバシバシ取り締まってくタイプ。授業中にいねむりした奴は。津田先生から教科書の角の洗礼と絶対零度の視線をいただくことになる。
迂闊にも舟を漕いでしまったクラスメイト安藤永太の証言によれば「あれは人を殺したことのある目だ」とのこと。殺人鬼が教師になってたまるかよ、と藤原は思ったけれど。
藤原にとって津田から女子に好かれる要素を見つけだすのは、青いバラを咲かせるのと同じくらい困難だった。それなのに、津田を見るたび胸をときめかせる女子は少なくない。津田に好かれたいがために予習復習をする者もいれば、逆に授業内容を理解していても、毎回質問に行く者もいる。話しかけられただけで一日中はしゃぐ女子を横目で見ながら、藤原は何度ため息をついたことか。女の考えることはよくわからない、と、ハードボイルドを気どってみたりする。
津田が女子に好かれる要素は見つけられないが、津田が好きな女子はいくらでも見つけられる。例えば、藤原の座席から左に一つ、前に一つ視線をずらせばすぐにビンゴだ。
椎葉沙代子。眠たくなる津田の長舌を、一言一句漏らさないとばかりに、一生懸命ノートをとっている。黒い髪を黒いゴムで結んで、動物のしっぽのように垂らしているのは校則の通り。きっと津田先生にも高評価だろう。
成績は上々、容姿もなかなか。ブレザーの裾にも、スカートのプリーツにも皺なんてあったことがないし、先生諸兄の受けもよろしい。いわゆる優等生というやつで、生徒会役員とか委員長とか、そういう肩書が似合う女の子だ。クラスが同じとはいえ、藤原みたいにゆるい人間と喋ることはほとんどない。まっすぐに前を見る横顔が、いっそ凛々しいほどだった。
藤原は手元でシャーペンをくるりと回した。今日最後の授業だってのに、ご苦労なことだ。
真面目な津田や真面目な教師は、一時間目の授業だろうと、六時間目の授業だろうと、同じように教壇に立って講義をするのだろうが、生徒側はそうでもない。最後の授業ならあと何分で終わるかと、放課後への期待で授業どころではなかった。椎葉のように好きな先生の授業なら別なのだろうが、藤原にとって授業というものは、津田に限らず退屈なものだ。
もっともそれはクラスメイトのほとんどに賛同してもらえるはずだ。正午を過ぎて太陽が西に沈み始める時間は、どうしようもなく睡魔に襲われる。呼吸するたび肺を満たす空気に睡眠ガスでも入っているのではないだろうか。クラスメイトの呼吸は穏やかで、今にも津田先生の制裁を受ける者が現れそうな気配がしていた。
椎葉に置いていた視線を持ちあげて、壁にかかった時計を見あげる。イタリックな数字が並ぶ文字盤の上で、黒くて太い針が自分の仕事を果たしていた。やけに古びた感じのこのアナログ時計は、卒業生から寄付されたらしいが、長針が動くたびに小さくカチンと音をたてる。藤原の集中力は津田の講義よりも、時計が刻む音に奪われていた。授業終了を知らせるチャイムが鳴るまであと25分。カーテンをすりぬけて入ってくる西日と、津田の口から放たれる低い音波が支配する教室で、時が刻まれる音を数えるのは簡単だった。
長身がずれる。
カチン。
あと24回。藤原はくるりとシャーペンを回した。
「授業中のよそ見とは感心しないな」
ぼふ、と頭をはたかれる。はっとして見れば、教科書を丸めた津田が冷たい目をして立っていた。
「つっ、津田ちゃん! いつの間に!?」
「それを知りたいと思うなら、もっと私の話を聞いていることだな」
腕組みをする津田先生を見あげるのは精神的にタフでなければこなせない修行だ。視線をそらそうと眼球を動かすのさえ、怒られてしまう気がする。苦しまぎれにあははと笑ってみたが、先生の表情筋は一ミリたりとも動かなかった。
教室の息づかいが、一度に緊張したものに変わる。背中に突き刺さった視線が何本あるのか数えられそうだ。きっとハリネズミのようになっているに違いない。防御本能の命じるままに、身体をちぢこめて頭を下げる。
「……スミマセン」
「以後、気をつけるように」
それ以上は何も言わず、津田は教壇へ戻っていく。四方八方の机から、ほぅっと息が漏れた。いったい何人が呼吸を止めていたのだろう。一呼吸遅れて、藤原も大きく息を吐いた。
やれやれ、津田ちゃんの気配に気づかないなんて、俺もヤケがまわったぜ。なんて、またハードボイルドを気取ってみる。おそるおそる頭をあげると、津田は何もなかったように板書を再開していた。濃緑の黒板の背景にすると、白いワイシャツの背中が広く見える。
藤原を叱るのは茶飯事だからか、津田が元に戻るのも早い。これならもういいだろうと防御の構えをとくと、椎葉と目があった。
「え?」
思わず声がでる。津田はもう教壇に戻っているのに、まさか椎葉が自分を見ているなんて。
椎葉も目があうとは思わなかったのだろう。ちょっと驚いた顔をして、すぐに前を向く。
背中に垂れた髪の毛がぴょんとはねた。