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らかな劾.2

「先生、さっきの授業でわからないことがあって」
 授業が終わって質問に行くのは、勿論藤原ではなく椎葉だった。とはいっても授業の後はすぐに帰りのホームルームが始まってしまう。なので、椎葉の質問はホームルームの後に津田が教室に来て教えることになった。
「いいんですか?」
「わからないことがあればいつでも説明すると、前から言っているだろう?」
 椎葉は嬉しそうに笑って、ありがとうございますと頭を下げる。また、髪の毛がぴょこんと跳ねた。
 ホームルームが終わった後も、椎葉は教科書とノートの点検に余念がない。もし津田が来る前に、質問を解決してしまったらどうするのだろうか。さっきのように頭を下げてごめんなさいと言うのだろうか。
 津田のクラスのホームルームは遅れているのか、教室から生徒がほとんど去ってもまだやって来ない。机に腰かけたままケータイをいじってたが、それにも飽きてきた。サーバに問い合わせをするたびに、「新着Eメールはありません」の文字が返ってくる。
「藤原くんも、津田先生を待ってるの?」
「え、えっ!?」
 ぼさっとしていたら、後ろに椎葉がいた。白い細面が薄く笑っている。
「べつに、そんなわけじゃないけど」
「じゃあどうしてさっきからずっと教室にいるの? 誰か待ってるのかなって思ったんだけど」
 自分の体を抱きしめるように、ノートを抱えた椎葉は一歩だけ前に踏みだした。浅い彫りの顔立ちのなかに埋めこまれた黒の双眸は、少しだけ湿った視線を送っている。
「……椎葉には関係ないだろ」
「そうかな?」
「そうだろ」
 そう、と呟くように答えた椎葉は、再度足を踏みだした。机のすぐ横に立って、まっすぐに藤原を見つめる。なだらかな斜線を描く細い眉が思いのほか黒々としていて、彼女の顔は水墨で描かれているようだ、と思った。
「藤原くんは、いいよね」
 視線の湿度が増した。
 責める口調ではないはずなのに、椎葉の瞳から目をそらしたくなってしまう。
「どうして」
「……私、藤原くんみたいになりたかったな」
「はぁ?」
 優等生の椎葉は勉強のしすぎで頭がおかしくなってしまったのだろうか。テストの順位は下から数えたほうが早い藤原は、おそらく落ちこぼれかそうでないかのギリギリのところにいる。素行もあまり褒められたものではないだろう。教師受けがいいのは椎葉のほうに決まっている。
「だってさ、わたしは津田先生が好きだけど、わたしと津田先生は生徒と先生以外のなんでもないもの。わたしも藤原くんみたいに津田先生とおしゃべりできたら、きっと楽しいと思うんだ」
「そうかぁ? 津田ちゃんなんて堅物で唐変木で顔が怖い石頭の頑固親父じゃんか。さっきだって、怒られてるし。俺は津田ちゃんが好きって言う椎葉のほうがわけわかんないよ」
「じゃあ、藤原くんは津田先生のこと嫌いなの?」
「……っ」
 そう問われると、返せる答えがなかった。好きかと問われればノーと答えればいい。でも、嫌いかと問われれば、
「まあ、嫌いかな」
 と、本心とは別の言葉を紡ぐしかなかった。口元をぬぐっていると、椎葉は満面の笑みで、藤原を柔らかく弾劾する。
「うそつき」
 笑っていない黒い瞳が、藤原の反論を拒否していた。





「藤原! お前まだ帰ってなかったのか。邪魔になるからさっさと帰れ帰れ」
 ガラララと音をたてて教室の扉が開く。不機嫌そうな顔でずかずかと二人の元へやってくる。
 今までのことが夢のように、椎葉はぱっと顔を輝かせた。
「津田先生!」
 女子というものはこんなにも移り気なものなのだろうか。すたすたと駆けよっていく椎葉の後ろ髪が、またぴょんぴょんはねている。
「ったく、しょうがないなー。津田ちゃんがそう言うなら帰ってやるよ」
「ああ、帰っていただこう、今すぐに」
 ケータイを隠して、鞄を手にする。頭を寄せてノートを覗きこむ二人の横を通るついでに、わざとバカでかい声であいさつしてやった。
「まったく……」
 津田はあきれ顔だったが、隣の椎葉はようやく邪魔ものが消えると言わんばかりに嬉しそうな顔をして、津田に熱い視線を注いでいる。
「……やっぱ、俺にはわかんねーや」
 と、藤原はひとりごちる。
「あんな堅物好きになる女子なんて、いなくたっていいのに」

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*2011.11.21.up*