「キョーヤ、アザミの最後のオ願イ、聞いてクレル?」
そうアザミが懇願したのは、水槽の横で来るべき時を待っていたときだった。僕の隣に座っていたアザミも自分なりに死期が近いことを感じとっていたのだろう。すがるような目でこう続けた。
「あっ、ホントにコレで最後にするよ! コレ聞いてクレタら、アザミはオ空でキョーヤと会っても絶対ワガママ言わないヨ! オ手伝イもちゃんとするし、もうキョーヤを困らせないし、それに……」
「わかったよ。言ってごらん」
指を折って数えだしたアザミを制止して、僕は優しく彼女を抱き寄せた。肩に腕を回すとアザミは僕の胸にちょこんと頭を置いて、目をつむる。
「アザミね、ソラが見たいの」
僕の息が一瞬止まった。今までほんの少しも意識にのぼらなかった心臓の鼓動が響きだす。急にわきだした生唾を飲みこんで、僕は極力平静な声を出すよう心がけた。
「空って、投影機の?」
「ちーがーうー。ソトにあるホントのソラだよ。やっぱり先に見てみたいンダ」
天真爛漫な笑みを浮かべて、アザミは願いを語る。いつの間にか目を開けて、天井を見上げながらアザミは青い空を幻視していた。
「でもアザミ、外へ出たら故障してしまうよ」
僕はその幻視をやめさせようとアザミの瞳をのぞきこんだが、その中に映った青空を打ち消すことはできなかった。おざなりにうんと言ってアザミはまた夢を語り出す。
「じゃあアザミはそのままソラにいくよ。キョーヤはアザミを見送ってね」
僕が引きこもりだとアザミには告げていない。きっとアザミは願いが叶えられるものだと信じきっているのだろう。僕の胸に頭をあずけ、返事を今か今かと待っている。活動停止を直前にしてなお、アザミの瞳はきらきら光り、口元には笑みが浮かんでいた。この監禁少女の夢に比べたら、僕の躊躇など塵に等しい。僕は覚悟を決めて唇を開いた。
「わかったよ、アザミ。ソラを、みせてあげる」
***
翌朝、僕はまだ眠っているアザミを毛布で包んで空の下へ連れていった。アザミの体はひどく軽い。手を離せば落ちるのではなく、飛んでいってしまうのではないかと思った。空はまだ夜明け前で、西の地平線には星がいくつか光っていた。
「起きて、アザミ。空だよ」
腕の中に抱きかかえたまま、僕はアザミを軽くゆさぶった。鈍い金属音と共にアザミはゆっくりと目を覚ます。
「ソラ……?」
数回まばたきをした後、アザミは僕に向かってそう尋ね、ついで視線を上にむけた。
「キョーヤ、青クないよ。ソラは青イんじゃないの?」
アザミは不思議そうな顔をして、またまばたきを繰り返す。
「まだ日が出てないからね。少し待っててごらん、じきに青くなるから」
僕はアザミの体を降ろし、その隣に座った。そしてアザミを毛布ごと抱きしめる。当然のようにもたれかかってくるアザミの頭に片手をのせ、僕たちは空が青くなるのを待った。
「キョーヤ、アザミ、ソラが青クなるまで、待てないカモ」
僕は答えずにアザミの髪を梳く。アザミも返事がほしかったわけではないらしく、また言葉を接いだ。
「ナンカね、目のマエがかすんで、キョーヤの顔もヨク見えないんだ。……あ、でもソラの色はわかるよ。右の方からスッゴクキレイな光が出てきた。ねぇねぇ、アレがオヒサマ?」
そうだよと声を返すと、アザミは笑顔になってまた話を続けた。
「ホントだ。キョーヤの言った通リだ。オヒサマの周りからソラが青クなってきてる。キレイだねぇ。……あぁ、ソラが真っ青だ。青クテ青クテ、吸いこまれちゃいソウ。……アレ? ……キョーヤ? キョーヤの顔が見えないよ。目のマエ全部青クって。ドコ? キョーヤぁ」
「ここだよ」
言いながら、僕はアザミの体をこれまでにないくらいきつく抱きしめる。誰に告げられなくとも、アザミが今いってしまうのがわかった。アザミを引き止める術を僕は持たない。だからこそアザミの最期は望むままにしてあげたかった。
「ナンダぁ、ソコにいたんだ。わかんなかったよ。でも、もう大丈夫。キョーヤ、アッタカイもん」
「アザミ!」
「アレ、キョーヤ。もうゼンブあおくなっちゃったよ。キョーヤ、ソラにかえるってtttこういうことなのカna。キョーヤ、きょーや。アザミはきょーやがだいすきだからね。まmmってるrllよ。きょーや、きょーやyayyay――――――」
日の出た空は雲一つない完璧な晴天だった。どこまでも広がるスカイブルーはアザミの最期に最もふさわしい色だ。
アザミの喉から電子音が途絶え、代わりに合成音声が新しい監禁少女の宣伝をし始める。曰く、「またのご利用をお待ちしております」 だそうだ。
アザミが活動停止したことをいやがおうにも思い知らすそれにうんざりして、僕はその場で立ち上がった。そのまま
アザミを水槽の側に寝かした後、僕は部屋の外へ出て玄関に行った。埃をかぶった靴箱の奥からこれまた埃をかぶったガスマスクを取り出す。今の世の中、ガスマスクは一人に一つの生活必需品だ。僕は約一年九ヶ月ぶりにつけるマスクにとまどいながらも、なんとか装着して玄関の扉を開いた。
空は赤と黒と黄色と灰色の煤煙でおおわれていて、太陽の日差しなどこれっぽっちも感じることができない。一歩外に出ただけでも体中にまとわりつく空気は濁った死の気配を内包していた。
長い年月をかけて蓄積された大気汚染は地上のほとんどの生物を死滅させ、人間を家の中に引きこもらせた。引きこもりは珍しいことではなく、選択余地のない生活スタイルにすぎない。一億総引きこもり化とでもいうのだろうか。和金がウン万円もしたのもそのせいだ。人間以外の生物が次々と姿を消していく中、愛玩用小動物は恐ろしいほど高額で売買されている。
アザミはこの事実を知らないまま空へいった。アザミが思い浮かべる空はどこまでも澄んだ真っ青なソラだ。アザミの世界は美しいものと素晴らしいものだけで構成されていて、この現実を知ることはない。
もしも叶うのなら、僕もそんな世界の中に生まれたかった。僕は青い空を画像でしか見たことがない。青空を本物だとは信じられない。僕の世界は濁っていて、愚かしく醜いものでしか構成されていない。僕はもう美しい世界を夢見ることはできなかった。
「アザミ……」
僕は青い空へいった監禁少女の名を呼ぶ。ガスマスクの下で発音されたそれはどこかしわがれて聞こえた。
アザミはこの空にはいない。アザミがいったのはあくまで澄んだ青い空だ。そこでアザミは僕を待っていてくれる。僕がいつかこの体から抜け出すとき、かえっていくのは煤煙にまみれた現実の空ではなく、アザミの待つソラだ。それでいい。たとえそれが灰色の部屋の中に映し出された幻影だとしても、僕はその全てを肯定しよう。
僕は現実の空をにらみつけた後、何かを断ち切るようにして扉を閉めた。