「キョーヤWoNgノ喘nimmは?」
アザミに異変が起きたのは、身体年齢が十九になってからわずか四日後のことだった。
「アザミ、今なんて言った?」
僕は最初、アザミがふざけているのだと思った。だってまだ活動維持機関の自動停止まで一ヶ月あるのだ。アザミのプログラムが異常を起こすのはもっとずっと先でいい。僕はできる限りアザミに生きてほしかった。そのためにだったら僕はどんな努力も惜しまない。もしそれでアザミの寿命が延びるなら、僕は外に出ることだって辞さない覚悟だった。
「えっとね、キョーヤ、Wwon寓imjrr……アレ? 上手くQuku、喋れなyyi」
けれど、そんな僕の願いを無視して、アザミの終わりはやってきた。水槽のすぐ側でサカナを指差すアザミの語尾に、歪んだ電子音のノイズが混じる。アザミがふざけていないことは表情を見れば一目瞭然だった。活動維持機関の劣化は、手始めに言語プログラムに異常をもたらしたようだった。
「ナニ、コrr流lle……イやァaeぁao」
「アザミ、落ち着いて」
アザミは何かを言おうとしていたようだったが、思い通りにならない自分の言葉に恐慌をきたしてしまったらしい。半ベソをかいてその場に座りこんでしまった。白地に淡く刺繍のあるスカートが空気を食べて膨らみ、その上に黒い髪が散り乱れる。僕は白いワンピースを着せたことを後悔した。これじゃあまるで死装束じゃないか。
「キョouooヤ、キyo宇ヤ」
つぶらな黒い目に涙をにじませて、アザミは僕の名を呼ぶ。細長い腕を伸ばして、アザミは僕を全身で求めていた。僕にアザミしかいないように、アザミにも僕しかいない。僕はアザミのそばへ行って、後ろからアザミを抱きしめた。
「大丈夫だよ、アザミ。僕がいる。大丈夫、大丈夫だから」
髪の毛をかきわけてアザミの耳に囁きかける。まったく根拠を示さない言葉だけど、アザミにとっては何ものにも変えがたい特効薬になった。
「ホント? キkkkiョーヤ」
僕の手を握りしめながら、アザミは振り向いて尋ねた。ピンと伸びた下まつげに涙が光っている。アザミのきらきらした目を真っ正面から見つめて、僕は微笑みながら嘘をついた。
「ホントだよ」
「じゃあ、コレはphaなんyiyeナノ?」
僕は答えずにアザミの髪を指で梳く。長い黒髪は僕の指の間にどこまでも絡みついて、離れなかった。
「落ち着いて聞けるって、約束できる?」
アザミは一瞬だけ視線を宙に浮かせたが、僕の目を見つめ返して深くうなずいた。僕はアザミの髪を指に絡みつかせたまま、アザミの頬を両手で包みこむ。
「アザミはね、空に還る日が近づいてきたんだよ」
「ソラr?」
不思議そうな顔をして僕の言葉を反芻するアザミに、僕は真実を隠し、嘘を交えて説明を続けた。
「そう、青空。アザミの体は人の手によって作られたから、今まで部屋の中から出られなかっただろう? でもね、アザミはもうすぐその体から抜けだして、自由に空を飛ぶことができるんだよ」
「キョーヤはh歯? キョoOoヤはドウなる乃?」
薄桃色の唇が、ノイズを発した後も小刻みに震えている。アザミは僕の手首を握りしめた。細い指が食いこみ、僕の手首にはきっと赤く跡が残るだろう。アザミが僕に残すわずかな存在の痕跡。
僕は笑顔を崩さない。
「僕はね、まだもう少しこの部屋の中にいなくちゃいけないんだ。だからアザミと僕は少しの間、離れ離れになっちゃうんだ」
「イ、イヤ……イヤ! ソンナのイヤだよ! イヤ、イヤ、ィヤahhn屋矢ぁa邪也eyd彌A椰婀唖――――」
アザミの指はますます食いこんでいく。人に害を及ぼさないように作られた監禁少女の力は僕になんの痛痒ももたらさないはずなのに。
落ち着いて、と前置きしていたのがきいたのか、アザミは暴れだしはしなかった。ただ僕と離れることへの恐怖を悲鳴に変えて、体の芯から絶叫している。もう一度強く抱きしめて、名前を呼んでも叫び声は静まらなかった。ノイズと悲鳴が混じりあい、そのうちに人の声とはかけ離れた電子音の連なりになっていく。
悲鳴が意味を失っていくにつれて、唇にしかなかった震えがアザミの体中に広がっていった。悲鳴に混じって内部の機械がきしむ音が聞こえてくる。ぎちぎちと鳴る金属は、これまで聞こえなかったのが嘘のようにひどい声をしていた。多分、ほとんどの機械が壊れているのだろう。これまで普通に活動していたことが奇跡のようだ。僕は数分前に甘い判断をした自分を叱りつける。言語プログラムの異常は手始めなどではない。僕とアザミの生活に終焉を迎えさせるせるための、最後の通告だったのだ。
「p――――――――――――――」
震えが抑えきれないほどに達した途端、アザミの悲鳴はかぼそい電子音に取って変わった。震えは止まったが、僕にぐったりともたれかかって、身じろぎ一つしない。
「アザミ……?」
返事がないことはわかりきっていたが、僕は尋ねられずにはいられなかった。上半身を起こしてアザミの顔を見る。あどけない顔立ちの監禁少女に意思は宿っていなかった。数房の髪が蔓薔薇のようにアザミの顔に絡んでいる。目蓋が半分だけ降り、柔らかなまつげが正体を失った黒瞳に薄く影を落としていた。
僕はアザミをその場に横たえ、目蓋を閉じてやる。灰色の部屋はアザミを失い、急速に生気を失っていった。いくら電子音が鳴ろうと、僕は一切の音を聞かないし、一切の色を見ない。僕に見えるのはこの部屋で唯一色を持つ、美しい監禁少女だけ。
不意に、指先にまだ彼女の髪が巻きついていたことに気がついた。濡れたような黒が僕の網膜に色濃く転写されていく。僕は軽く息を吐き、彼女の蒼潤とした髪を一房取った。彼女を黒く彩るそれは、しなやかに僕の胸を縛る。長い永い一瞬が過ぎた後、僕は沈黙の内に彼女の髪へ唇を落とした。
***
一縷の望みを持ってメーカーに尋ねてみたところ、やっぱりアザミの活動停止を止める術はないらしい。ただ、言語プログラムだけなら修復できるようだったので、かなり高額だったが僕はその修復ソフトをパソコンにダウロードした。テーブルの上に寝かしたアザミのうなじに回線をつなぎ、インストールする。インストール自体にはそう時間はかからなかったが、アザミの言語プログラムがなおるのには相当かかった。おそらくこれも活動維持機関の劣化に関係があるのだろう。アザミの内部からは金属のきしみが絶えず聞こえ、肌に触れるとびっくりするほど熱かった。
「キョーヤ、ドコ?」
熱に浮かされたようなしわがれた声が聞こえて、僕はすぐさまアザミの隣りへかけ寄った。アザミの目は開いていなかったが、意識はうっすらとあるのだろう。右腕が宙に伸ばされ、僕を探している。両手で包みこむようにして持ってやると、アザミの口元に小さなえくぼができた。
「どうしたの、アザミ。僕はここにいるよ」
僕の声に反応して、アザミの目が開く。僕を瞳に映すとさらに笑みが深くなった。
「良カッタ。……ねぇキョーヤ、一ツだけワガママ言ってもイイ?」
僕がうなずくと、アザミの喉から空気の漏れる音がした。笑い声なのだろうか。僕にはよくわからなかった。
「アザミのソバに、イテ?」
もちろん肯定だった。キリキリ、とアザミの首が曲がる。監禁少女に痛覚はないが、体が思うようにならないもどかしさは感じているのだろう。僕はアザミの腕を包む手の力を一層強くする。言葉にしなくともアザミには伝わったようだ。眉間に数本のしわを寄せて、けれど笑みは消さぬままアザミは続けた。
「ありがと、キョーヤ。大好き。キョーヤと離れるのはヤ。ドーシテモ、アザミだけイカナキャいけないノ?」
「僕もいくよ――いつか、必ず」
修復が終わったのか、アザミにつながっていた回線が突然抜けた。金属音のうなりも静かになっていく。それがよかったのか、アザミの眉間からしわが消える。瞳にはいつものキラキラした光が戻り始めていた。アザミはもう片方の手を僕の手にのせて唇を開く。
「ホントに?」
「もちろん。きっと空のなかでは僕を待ってる時間なんてあっという間に過ぎてしまうよ。だからいい子にして待っていて。お願いだよ、アザミ」
ヤッターと無邪気な歓声をあげて、アザミはくつくつ笑った。けれども、やはり起きているのは辛いのか、すぐにまた目蓋を降ろしてしまった。無心に眠る彼女は、いったいどんな夢を見るのだろう。僕はその夢を見たいとは思わない。アザミが夢を見ているという事実があればそれだけでいい。
アザミは何も知らなくていい。僕だけがこれから先起こることを正確に把握していればいい。どうかアザミだけは最期まで夢を見ていて。世界は素晴らしく、美しいものなのだと。それがもう夢を見られない僕のたった一つの望みなのだから。